「あ、静雄。お前今日――・・・・・・いや、なんでもない」

 何かをいいかけてやめた上司の顔に、静雄は不思議そうに首を傾げた。
 なんだろう。
 これで三度目だ。
 朝一でかかってきた電話は弟から。
 その次は出社途中に会ったセルティ。
 そして今度は上司の田中トム。
 三人ともが、何かを言いかけてはやめる。
 今日はなんだかみんな、様子がおかしかった。




―― brightness of ore ――




 夕方である。
 あれからも会う知り合いが皆して、何処かそわそわしていて。
 静雄はただ、微かに首を傾げた。
 仕事はいつもどおり。
 曇り空、どんよりと灰色がかって、だから今日は心なしか、陽が暮れるのが早い。

「おーい、静雄ー。あと一件で今日は終わりだべ」

 トレードマークのドレッドヘヤを揺らして、僅か先から上司が静雄を振り返った。
 ガードレールにもたれて、彼を待っていた静雄は、つと腰を上げる。

「っス」

 返事は短く、くわえた煙草は放さないままで。
 夕闇が少しだけ深くなって、上司の輪郭が少しだけおぼろげになった。
 最近長くなってきた陽は、だがこんな天気の下では暗いばかりだ。
 静雄は上司の影を見失わないように、足早に彼の後ろへと続き、今日はいつもより終わるのが早いと、瞬き始めた電灯を見て思った。
 アスファルトに伸びる足跡は長く、ざわついた繁華街を縫うように進む。
 身を切るような冷たい風が、白いシャツをなぶって白い空へと立ち消えた。
 交差点に差し掛かった時だ。
 どしり。
 赤信号で止まった静雄の腰の辺りに走った衝撃に、ふとそちらを見下ろした。
 艶やかな黒髪。
 見た覚えのある影。

「やっと見つけた!静雄お兄ちゃん」

 にっこりと笑顔を浮かべて、静雄を見上げてきた幼い少女は、常と変わらない仕立てのいいワンピースを着ていて。

「あ〜あ」

 気付いて振り返った上司の、何処か残念そうな声が耳に届いた。

「ああ?お前は――・・・・・・」

 それが最後である。





+++





『だから、とりあえず帰りに僕んちに寄ってよ。茜ちゃん連れたままでいいからさ』

 そんなに時間は取らせないよ。

 携帯から聞こえてきた耳慣れた友人の声に、静雄は僅かに眉根を寄せた。
 少女はいまだ、腰にしがみついたままだ。
 彼女の出現で、うやむやの内に明日に回すことになった残り1件が果たして構わなかったのかどうか、それは静雄にはわからない。
 ただ、上司が諦めたように手を振ったので。
 そもそも元より然程に期限に煩い職場でもない。
 今は会社の前で彼を待っていた。
 上司が建物に入ると入れ違いぐらいのタイミングで、かかってきた電話が今のそれだ。
 一度は少女がいるからと断ったのだが、珍しく食い下がってきたのに、苦虫を噛み潰したような心地で通話を切った。
 少女を見下ろすと、何が楽しいのか、肩で揃えられた黒髪を揺らして、にこにこと笑みを浮かべていて。
 思わず溜め息が出た。
 多分・・・友人の用事も、判るような気がしている。
 それは他でもないこの少女が、ついさっき静雄にもたらしたもので。
 そう思うと、なんだか面映い気がした。
 この年になって、とも思うが、素直に嬉しい。
 少女で最後である。
 静雄を見て、何処かそわそわと落ち着かなげな態度を取ったのは。
 少し離れた所では、少女の護衛だろう厳つい人相の男が数人、物陰に隠れている。
 ご苦労な事だなと内心ごち、少女の黒い髪を撫でた。

「てゆっか、大丈夫なのか?茜ちゃん」

 そろそろ陽も暮れきって、空には薄墨さえ残っていないような時間だ。
 まだ、遅いとまでは行かずとも、子供が外でふらふらしていていい時間ではない。
 少女はひしりと静雄にしがみつく。

「いいの!私、フライングしちゃったし・・・だって一番に言いたかったんだもん!だからいいの!」

 少女の言葉は要領を得ない。
 少なくとも、静雄のかけた言葉に対する応えではなく。
 だが、静雄はそれ以上問いを重ねることはせずに。

「そうかよ」

 溜め息混じりに呟いて、ゆらりと黒い髪をまた一つ梳いた。
 ストレートな行為は、ただくすぐったいばかりで。





+++





 時間は取らせない。

 言っていたくせに、結局、友人の家を辞したのは、23時を過ぎた頃だった。
 もうじき今日も終わる。
 冷たい夜風の中を、静雄は肩を竦めて歩いていく。
 ネオンは変わらず瞬いて、例えばどんな夜の中でも、きっとこの街が暗くなることなんてないのだろうと、灯る街燈を見ながらぼんやりと思った。
 あの、古い友人の家で。
 静雄を待っていたのは、くすぐったくなるような宴で。
 多分個別には面識などほとんどないだろう者達が、銘々に楽しんでいた。
 もちろん、静雄も、久しぶりに心安らかでいられて。
 それは多分に、あの男が。
 あの男だけが。
 影も形もなかった所為かも知れない。
 少女が自らでフライングと言っていたとおり、彼女が口に出すまで気付いていなかった静雄が、今日という日に気付いていることに、特に弟等は残念そうにしていたけれど。
 それでも、大したことではない、楽しく、時間を過ごせたことは本当。
 このまま。
 あの男の顔を見ずに今日が終わるなら、それに越したことはないと、歩む足を止めずにぼんやりと思う。
 其処にあるはずの空を瞬く星は、明るい街の光の所為か、重くかかったままの雲の所為か、少しも静雄の元へは届かない。
 吹く風の冷たさに、一つ身震いした。
 冬の寒さ・・・得にこの季節の夜の冷え込みは、正直薄いシャツ一枚の静雄には辛い。
 まぁ、それでもそれ以上どうこうするようなことでもないのだが。
 いずれにせよ、静雄の足取りは重くはなく。
 ただ、満ちた心地で棲家としているボロアパートを目指す。
 慣れた道のりだ。
 もうすぐにと、アパートへ続く角を曲がった時だった。
 自宅アパート前に、黒い影。
 常と変わらぬ頭を彩るような白いファーが揺れて。

「あ。やっと帰ってきた」

 シズちゃん。

 影は笑った。
 常と変わらぬ顔をして、いけ好かない、その態度で。

「臨也」

 23時を少し過ぎて。
 今日がまだ少しだけ残っている頃だった。





+++





「はぁ。さっむいよね〜・・・シズちゃんってばよくそんな格好でいられるよね!頭おかしいんじゃない?」

 臨也がからりと笑う。
 馬鹿にしたような態度で、肩を竦めながら。

「てんめぇ・・・・・・喧嘩売ってんのか?!あぁん?!」

 すごんで見せたら、まさか!
 男はただもう一度肩を竦めて。
 続く言葉は多分、『売っていないはずがない』だろうことをわかっていながら、続きが口に出されないのをいいことに、静雄は一つ舌打ちを漏らした。
 それだけで、済ませてしまう、夜の公園。
 静雄のアパートから程近く。
 途切れそうな街燈が、じりじりと時に瞬いて。
 白い息が、二人の間を流れては消えていく。
 溜め息のような息ばかり吐いて、男はだが、何をするでもなく静雄と肩を並べていた。
 もっとも、二人の距離は3歩分。
 離れているというほど離れてはおらず、かといって近づきすぎたりもせず。

「今日はさぁ、いいことがあったんじゃないの?皆も酔狂だよね、君なんかを祝おうだなんてさ。誰が言い出したのか知らないけど、サプライズパーティ?まんざらでも、なかったでしょ」

 吐き捨てるように、常と変わらない口調で紡がれる色のない声に、静雄はただ、顔をしかめた。
 相槌を打つのも癪で、かといって否定できるものでもない。
 夜の空気は何処か透徹だ。
 まるでこの男そのもののよう。
 冷たい風が、また一つ白いシャツをなぶった。
 静雄の金の髪が、ちりちりと電燈に瞬く。
 静雄は、ほとんど何も言わなかった。
 臨也も、多く何かを話すわけではない。
 ただ、時間だけが過ぎて。
 重い空が、重いまま、夜は深く、暗く。

「ぅんもう!応えもなし?シズちゃんってば、俺と話す気ゼロだよね!礼儀って言葉、知ってる?しつけを疑うよ、まったく」

 ほとんど言いがかりのような文句をつけて、臨也は白い息を吐き出した。
 腹が立つばかりのその言葉に、だが静雄は何故だか動く気になれずに。
 静雄が、そんな風であることも、臨也はわかっていたのだろう、男も男とて、たまにこぼす毒のある言葉だけで。
 それ以上を、どうするのでもない。
 夜の中、また一つ白い息が、生まれてはすぐに消えていく。
 静雄は息を吐いた。
 白い。
 同じように、臨也の周りも、白く煙っては闇に沈んで。

「あぁもう!ほんとさっむい!絶対シズちゃんの所為」

 ぶちぶちと、まばらに。
 思い出したようにこぼれる言葉に、意味などきっと少しもなくて。
 いくら。
 そうして、何もせず、二人、無為にそんな場所にいたことだろうか。
 臨也が不意に動き出した。
 もたれかけていたブランコの柵から、躰を離す。

「・・・・・・・・・・・・・・・帰る」

 そっけなくきびすを返して。

「・・・・・・そうか」

 静雄もゆっくりと身を起こした。
 彼が向かうのと反対方向、自らのアパートの方に足を向けて。
 一歩を、踏み出した時だった。

「シズちゃん」

 ぐいと、引かれた腕、振り向いた唇に何かが触れる。
 それは酷く冷たくて。
 だけど何処か温かい。
 いつの間にこんなに近くにいたのだろう、否、この男ならそれぐらいわけがない、静雄の腕を、臨也の指がきつく掴んで、ぬるり、こじ開けるように唇を割って入ってきた彼の息を、静雄は咽そうになりながら吸い込んだ。

「はっ・・・ぁ・・・」

 頭がぼける、それはほんの僅かの触れ合いで。
 かちり。
 舌先に押し付けられたのは硬い何か。

「しょうがないから、それをあげるよ、Happy Birthday」

 シズちゃん。

 男の顔は、常と変わらなかった。
 いけ好かない、悪意の滲むような笑顔だ。

「おい、いざーー・・・」
「大嫌いだよ」

 ひらり。
 そんな言葉一つ、耳に流し込んで。
 男は身軽に身を翻して。
 ほんの少しの間に、もう何処にも見えなくなった。
 カチリ、時計の進む音がする。
 口かけたような公園の時計が、日付が変わったことを示して。

「ちっくしょう・・・あの馬鹿」

 悪態を吐きながら、口に含まされたそれを吐き出した。
 小さな。
 本当に小さな何かだ。
 一見して、ガラスか何かのような、だけど、粗末な街燈の光に目映く反射して。
 これは多分・・・・・・。

「・・・・・・ダイヤ、か・・・?」

 まさか、まさかな。
 くつりと、喉の奥で一つ笑った。
 たった一粒の何か。
 それは今年で九つ目。
 年によって、いろんな色、いろんな大きさで。
 ただ、変わらないのは、決まって今日。
 今日が終わる、間際にあの男から押し付けられるという点だけ。
 そして多分、ただのガラスだまだったりはしないだろうという、ただ・・・それだけである。
 静雄は深く、息を吐き出した。
 夜の闇に、白い息がすぐに溶ける。
 身を切るような夜風。

「・・・帰って風呂って寝るか」

 ぼんやりと呟いてきびすを返した。
 今度こそ、自分のアパートに向けて。
 いつも。
 今日という日を、自分の誕生日を、静雄は忘れてしまう。
 だけど、あの少女が自分だけ先にと、静雄に告げた夕刻から、ほんとは静雄はわかっていた。
 多分、今日だけは。
 あの男に会っても、殴ろうとだけは思わないだろうことを。
 ただ、許容する時間の無意味さを。
 そしてほんの一瞬の。

 微か過ぎる触れ合いを。

 アパートへと足を進めながら、乏しい街燈に透かして。
 ぼんやりと、小さな欠片を見る。
 小さいくせに、きらきらと。
 眩しいぐらいに瞬くそれは。
 なんだかあの男とは酷く不似合いで、静雄は知らず、口はしに笑みを浮かべたのだった。

 何処か落ち着かない昨日という日に。
 静雄はまた一つだけ年を取った。
 1月の。
 ほとんど、終わりの頃である。
 寒い夜だった。



Fine.


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(2011. 1.28up)


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