ただ、暗かった。
もう何も光の射さない闇だ。
―― dark the world ――
ぬるりと。
ぐちゃりと。
何かを引きずるような、否、かき回すような水音が、ひっきりなしに響いている。
「っ!・・・っ・・・・・・!」
喉の奥から引き攣れたような息が漏れ、だが声にはならなかった。
もう、言葉さえ発せはしないのだ。
躰中が痛い。
痛くて痛くてたまらない。
胎の中から這い上がる痛みに、闇に沈んだ目蓋の先で、赤い何かが瞬きする。
手も足も何一つ自分の思い通りにならず、ただ音だけを聞いて、痛みだけを感じている。
「くくくっ・・・ははは。あははははは!!!」
男の笑い声が響いたが、だがそれはとうに鼓膜を振るわせる何かでなどなかった。
耳も既に麻痺し、何処かしらの水音は、あるいは耳の中からか。
びちゃり、ぬちゃりと音がする。
胎の中が痛く、躰がゆらゆらと揺れて、信じられないほどに何処も彼処もが冷たい。
冷たかった。
自分はどうして此処にいて、自分はどうしてこんなことになっていて。
それすらもよくわからない。
ただ痛い。
痛くて痛くて、そして暗くて。
手は、動かなかった。
足も、何もかも何一つ、自分の思う通りには。
暗い。
ただ暗い。
視界も、思考も、頭の中何もかもが真っ黒で。
静雄は痛みと、闇と、水音の中にいた。
静雄にとっては、世界はただ、それだけだった。
ぐちゃぐちゃと、びちゃびちゃと音が鳴って、静雄の躰ががくがくと、ゆらゆらと揺れ、声にならない焼き付いたような息がまた一つ高く上がる。
否、ずっとひっきりなしに。
その息は響いていたのだけど。
何一つ音になることはなく。
「ねぇ、シズちゃん、どんな気分?君はいま大っ嫌いな俺に侵されてるんだよ?ねぇ、どんな気分?ねぇ!・・・そうだよね、もう聞こえないよね」
声だって・・・上げられない。
男は、酷く。
酷く酷く、楽しそうに笑った。
新宿で情報屋を営む男だった。
がくがくと人形のようになった静雄の躰を思う様蹂躙して、揺さぶって、甚振って、罵って。
そして笑った。
「あはは。楽しい、楽しいよ、シズちゃん。あはは。ははははははは!」
笑った。
ただ笑った。
だけどその笑い声が
静雄の耳に届くことはない。
ただびちゃびちゃと。
ぬちゃぬちゃと。
何から発せられているのかすら判らない水音と、痛みだけが全て。
ただそれだけが全て。
+++
もとは小奇麗な部屋だったろう。
だが今は醜悪に汚れていた。
夜の闇と言うことだけでもなく、窓のない部屋は真っ暗で、光源一つない中では、自分の指の先さえ危うい。
そんな中に人が長時間いて、正気でいられるはずがないのだ。
それが普通の人であるのならば。
ただ、彼は普通と言うくくりに入り込むような人物ではなくて。
静雄はゆっくりと目蓋を開けた。
だが、押し開けた目蓋の先も黒。
ただ黒。
濡れた感触が、肌に纏わり付いていた。
躰中がじんじんと痛む。
鼻を突く腐ったような鉄錆の匂いが、今は感じられ、あんなにも全てな気がした水音など、今はほとんどしない。
ただ身じろぐ度にびちゃりと。
濡れた感触と水気の跳ねる音が動作の後を追ったけれど。
痛みを感じないところなど、何処にもなかった。
手も、足もやはり動かせず、緩慢な動作で瞬きを繰り返すのだが、視界に映るのはただ闇、闇、闇ばかりだ。
不意と耐えることも出来ない間に、躰の中からどろどろと流れ出た何かにびくりと背を震わせたけれど、流れ出たものが排泄物なのか、それとも他の何かなのかすらもうよく判らない、異臭はそんなもの全てを伴って、とりわけ鉄錆の・・・つまりは血の濃密な匂いが一番目立つのだ。
静雄はまた一つ瞬きした。
ただそれしか出来なかった。
躰の何処も彼処もが痛んだ。
もう何処が痛いのかもわからなかった。
辺りは暗く、ただ暗く。
びちゃりと。
ほんの僅か身じろぐと、もうずっと聞き続けていたような気がする水音が、耳の奥に響く。
幾度か、もう少しだけ動けるだけ躰を動かしてみて、それと音が連動していることに、いまだ聴覚はまともなままなのかもしれないと静雄はそろそろと息を吐き出してみた。
それは今までも意図せずにできていたことで、今も意図せずにできたことだ。
静雄は自分の状態がわからなかった。
ただ、判らないと言うことだけは、判っていた。
「っち」
舌打ちをする。
口の中がざりざりして、やはり濃い血の味がする、本当はずっとしていた、匂いだけじゃない、慣れているような気さえする鉄錆の味だ。
静雄はまた一つ瞬きした。
やはり闇は闇で何も見えるものはない。
そうして幾度経ったことだろう。
幾度も目蓋を閉じ、開き、身を震わせ。
痛みは痛みのまま。
動かない手足は動かないまま。
濡れた音を幾度も聞いて。
そうしてどれだけ経った頃だったろう。
闇は闇なまま、目が慣れることはなかった。
その闇の中で。
キィ・・・と。
今まで欠片すら聞こえなかった金属音が細く響き。
うっすらと射し込んで来た一筋の光に、静雄は思わず目を細めた。
ずっと。
闇の中にだけいた網膜には、眩しすぎて。
何も見えなかった。
ただ、少ししてだんだんと慣れてきた目に映るのは、黒と赤。
一筋の光は、どうやら細く開いた扉から差し込んでいるようで。
その扉のこちら側と向こう側。
向こうはただ白く。
白く。
そしてこちらは赤かった。
赤く、その間を縫うようにして、元の床の色なのだろう黒が覗いている。
冷たいタイル地に、静雄ははじめて其処が、排水溝を伴った、洗い場のようなものであることに気付いた。
風呂場ではない。
多分、違うと思われる。
黒いタイルだ。
その上で、赤。
鉄錆の赤。
毒々しいほどに流れる、それは血だ。
痛む全身に、静雄はそれが己の流した血の道筋だと知る。
痛む躰と、軋む様にして動かない手足もそのままに、静雄は何度も瞬きして、光の中、差し込んだ影を睨みつけた。
其処には、見慣れたくもないのに見慣れた、憎憎しい男の顔が一つ。
溢れんばかりの笑顔を湛えている。
まるで嬉しくてたまらないと。
その顔が言っていた。
「やぁ、シズちゃん。もう気がついたんだね。流石だよ」
でもまだ・・・動けないみたいだね。
大丈夫。
動く必要なんて、ないんだからね。
男が一歩。
そんなことを、殊更に楽しいと言うような口調で呟きながら、中へと入ってくる。
黒い男だった。
黒くて黒くて、中も外も全部黒くて。
反吐が出そうなほどに。
嫌悪が沸き起こる。
その男の手が、伸びて。
そして。
がっと、口を押さえつけられて、動かない躰が軋んだ音を立てながら、首を限界まで伸ばす。
がんっと、何かにぶつけられた後頭部は痛み、だらりと何かまた液体が滴り落ちる感触が頭の後ろから首筋を伝った。
それはきっと、鮮烈な赤い色をしていたことだろう、今床には知るその色と同じように。
目の奥がちかちかしている。
すぐ目の前に、いけ好かない男の顔。
静雄はその男を睨みつけようと思って・・・だが止めた。
止めてしまった。
きっと。
それはこの男を、喜ばせるだけだろうと思ったからだ。
男の顔は、扉からの光で少しも見えはしない、だが、勤めてその姿を、もう目に入れないために目蓋を閉じる。
そうするとさっきまでと変わらない真っ暗な視界の中で、目蓋の裏、扉から差し込んだ光だけがうっすらと違う色を見せている。
目の裏が赤いのだ。
赤くて。
静雄は口を開いた。
男の手はいつの間にか、静雄の髪をひき掴んでいて、唇が僅かに開く。
細い息がその間から漏れ、だらりと、鉄錆の味のする何かが口の端から流れた。
それを。
吐き出す力もないままに、ただ。
「死ね」
そんな悪態を、多分目の前にいるのだろう男に向かって刷き捨てる。
それが今の、静雄ができる精一杯だった。
「っ!!ははは!あっはっはっはっは!」
男は笑った。
狂ったように、笑って、笑って、笑って。
「ねぇ、シズちゃん」
耳につく、粘ついたような猫なで声で静雄の頬を撫で。
そして。
「悪態なんて、幾らだって吐くといい。だけど、もう・・・」
逃がしてなんて、あげないよ。
酷く、楽しいと、そんな口調で。
耳の奥に、囁いたのだった。
びちゃりびちゃりと水音がする。
躰中の痛みなんていっそどうでもいい。
ただ、この真っ黒な目蓋を開いても。
その先には更なる闇が・・・男の瞳の奥に。
ただ、見えるだけなのだろうと思うと、なんだかもう二度と、世界が遠いままなのかもしれないと、静雄は固く、閉じる目蓋に力を込めるのだった。
暗いくらい闇の中で、ただ躰中が痛い。
Fine.
>>よくわからない。要リベンジだなって思う。
(2010. 3. 9up)
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