その存在はまるで、水に堕ちた一滴の墨。



―― immutability is neon ――




 放電管の灯がバチバチと弾けて、青白い光がそこいら中に飛び散った。
 光の残滓を追う。
 その先は街だ。
 夜も遅くまで真昼より明るい歓楽街。
 東京副都心池袋。
 その北部に広がる大規模なネオンの洪水は、幾度見ても、幾年この街で過ごそうと変わることなく、まるで人間の深淵を覗き見ている感覚に陥った。
 目の端で看板の一つ、アルゴンの紫が夜に埋没しそうで、それでありながら鮮やかに、他との区切りをはっきりとつけている。
 静雄はぼんやりとその街を見ていた。
 正しくはその灯りの中で、1点の黒いシミのように飛びまわる男の背中を。
 ぼんやりと。
 口に咥えた煙草の火をふかした。
 すぅーーっと息を吸い込むと、胸いっぱいに広がる独特の苦味は、じん、と頭の芯を痺れさせるようだ。
 ふっと吐き出した煙は、視界を白くぼやけさせて、やがて夜の灯りの中に溶けてしまう。
 今日は珍しく腹の立つことが何もなくて。
 だからヤツの背中を見つけても、何かを投げようとは思わないでいる。
 我ながら珍しい感覚だった。
 あの男がこの街で何をしようとしているのか・・・今何をしているのか。
 が。
 ちっとも何にも気にならなかった。
 不思議だ。

 たまにあるんだよなぁー・・・こういうの。

 思いながら、また一つ深く息を吸った。
 もたれ掛かったガードレールは、もしかすると服を白くしてしまうかもしれないと思ったが、まぁ、それぐらいなら取れるだろうと、気にしないことにする。
 ちかちかと、目に痛いぐらいのネオンが、誘蛾灯のように人を飲み込んでいく。
 その様は本当に深淵。
 男の背は時折消え、だがすぐにまた顕れた。

 赤い光は、ネオン。
 紫がアルゴンで、白いのがヘリウム。
 水銀が青かったっけか。

 どうでもいいようなネオン管灯に封入されているガスの種類を、頭の中で列挙してみた。
 そんなくだらない知識を、ひけらかすように嘯いていたのは今目の端に飛びまわる黒い男だ。
 髪も黒、服も黒、コートの橋についたファーだけが白く、目の色まで真っ黒だ。
 否、あれは赤だったか。
 毒々しい濁った赤。
 どうでもいい。
 思いながら静雄は、また一つ息を吐いた。
 白い息は色とりどりの街燈の隙間をぬって空気を染めることなく溶けていく。
 ぼんやりと、街を見ていた。
 今日の仕事はほんのついさっき終わって。
 夕飯も早い時間に上司と済ませてしまっていたから、もう帰るだけなのだけど。
 そうして真昼のように明るい歓楽街、その一歩裏側の薄暗い路地の先、自らが寝起きする古くさいボロアパートへと足を向けようとしたその時。
 ふと。
 視界の端に、黒が過ぎったのだ。
 それ以来何とはなしに、此処にとどまっている。
 特に何をしようとも思わずに、ぼんやりと道の端につっ立って、車の派手に行きかう拾い道路の先、黒いシミがいろんな所へと堕ちていくのを眺める。
 そのシミはまるで、水の中に一滴垂らされた墨の黒でありながら、だが決して周囲に溶け込むことがなかった。
 否、あんなにも明るいネオンの下だからこそ、浮かび上がる黒であるのか。
 男は気付かない。
 ただ、蛾のように誘われるまま、否、誰かを誘ってでもいるのか、ふらりふらりと飛び回って。
 街の中に立って、埋没するようでありながら静雄は決して存在感がないと言うことがない。
 逆に何処にでもいるようでいて独特の、その服装も相俟って、目立っていると言って過言ではなかった。
 だから、本当は気付いているのかもしれない。
 例えそうだとして、それこそ、そんなこと静雄にわかるはずもなく。
 また一つ、煙草の煙を吐き出す。
 短くなったそれを、懐から出した携帯灰皿に押し込んだ。
 もう随分吸殻がたまっているから、次に何処かでゴミ箱を見つけたら、中身を捨てておかないといけないなと、やはりぼんやりと、そんなことを思い、あと一本。
 それだけ吸い終わったら。
 足を動かそう、思いながら新しい煙草に火をつける。
 チカチカと眩しいネオンは、行き交う車のライトに霞み、だがまぎれてしまうことなく其処にあり続けた。
 濃い色のサングラス越しでも、その色を見間違うことなどない。

 気付けばいいのに。

 ぼんやりとした思考の端で、そんなことを思う自分に気付いて、静雄は口汚く舌打ちをした。
 一つ。
 黒いシミのような男は、到底静雄と折り合いの悪い相手で見るたびに胸糞悪くなり、思考が真っ赤に染まるような怒りに駆られるのに、今日に限っては・・・否、たまにあるのだが、そんなこともなく、それでも、むしろ殺したいとさえ思う、その憎しみに嘘はないのに。
 どうしてだろう、気付いた自分の思考は、まるで親に捨てられた仔犬のようだ。
 と、するとあの男が親だとでも言うのだろうか。
 己が焦がれる相手だとでも?
 自分に思考に気分が悪くなった。
 深く。
 一つ息を吸い込んで、煙草の苦味を灰に満たす。
 今まで取り留めもなく廻っていた思考が、全部押し流されていくようだ。
 そう、それでいい。
 あの男のことなんて、考えずともいいし、気付かれないままでよかった。
 じじと、仄かな先の火がもう手の近くまで来ている。
 最後にとまた一つ深く息を吸って、吐き出した。
 随分と亡骸のたまった携帯灰皿に、また一つ同胞を増やしてやる。
 瞬くネオンに目を細めた。
 箱の中に、煙草はまだ残っているけれども。
 灰皿がもういっぱいだ。
 ならばこれ以上、此処にとどまる意味もないだろう。
 ネオンの下で。
 先ほどから変わらずに舞う、黒いシミに目を細めて、すくりと迷いない足取りで踵を返す。

「ばぁーか」

 吐いた悪態の先で、自分の口の端が緩むのがわかった。
 なんだか馬鹿馬鹿しい気分で、だけどあの男をあれだけ長く見つめていたと言うのに、可笑しいことに少しも腹が立っていない。
 たまにはそんな日もあるかと笑った。
 笑って、もう寝るだけの自分の部屋へと向かう。
 その背を。
 溢れるようなネオンの下で、黒い男が。
 ひたとじっと見つめていることに。
 もしかしたら、何処かで。
 気付いていながらも、自覚はせずに。

「シズ、ちゃん」

 遠く。
 静雄の耳には届かない場所で男がぽつり。
 車の廃棄音にまぎれるようにしてただ一つ呟いた。
 ただそれは。
 それこそが。
 まるで迷子の子供のような声で。

 ネオンが瞬いている。
 赤く、白く、ただ変わらずに。
 真昼より毒々しい輝きで。
 昨日と同じ顔をして。
 明日の灯を飲み込みながら。

 池袋の夜は。
 今日も変わらずに、更けていく。
 ただ静かに・・・鬱々と。


Fine.


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(2010. 3. 9up)


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