夜。
 君の家に忍び込む。
 眠っている君は、昼間のように、何かを俺に投げかけることもなくて。
 ただ、無防備な寝顔は、まるで幼い子供のように無垢なまま。

「・・・・・・シズちゃん」

 囁いた声は、君の肌に触れて溶けた。




―― under the moonlit ――




 ボロいアパートだ。
 鉄筋コンクリートの、一派裏路地へ入れば、何処にだってあるようなこじんまりとした灰色の四角い箱。
 池袋北部の裏側。
 寂れた2階建ての1階一番奥。
 其処が彼の部屋だった。
 錆び付いた扉にぴたりと手を当てて、慣れた仕草で針金を鍵穴に通す。
 がちゃり。
 静かに音を立てて開いた部屋の内側へと、臨也はするりと身を滑り込ませた。
 電気の消された玄関は暗く、視界ではほとんど何も捕らえられやしなかったけれど、目に頼る必要がないほどには、その室内の配置を覚えていたので。
 臨也の足に迷いはない。
 迷いなく、意外なことに靴を脱いで上がりこんだ。
 猫のように足音を立てず部屋の奥へと進む。
 狭い部屋だ。
 玄関のすぐ脇が狭いキッチンになっていて、その先にあるのは一部屋だけ。
 本来ならガラス戸でキッチンと隔てられているだろう部屋にその引き戸がないことは、それこそ今更なことで。
 この部屋には、物がほとんど何もないのだ。
 生活に必要な最低限のものすら、ともすれば事欠く有様なほどには。
 微かな寝息が聞こえた。
 カーテンなどと言う洒落たもののない部屋で、蒼い月明かりの下、一つきりの薄い布団に寝転ぶ男の色の抜けた髪は、何処か光に溶けてしまいそうだ。
 存外に長い睫毛が、鼓動にあわせて震え頬に堕ちた濃い影は、白い肌を寄りいっそう白く見せていた。
 無防備で無垢な様を晒して、男は目を覚まさない。
 多分、臨也が何か害意を持ってこの部屋にいるわけではないと言うのもあるのだろう、最も彼は、そんなことの有無に関わらず、基本的に気配に聡い方ではなかったけれども。
 と、言うよりは寝首をかかれたとして、それが然程問題だとは思っていないのだろう、いつだって意識のない姿は過ぎるほどに無防備なのだ。
 それは無垢な信頼。
 生まれたての赤子のような魂。

 シズちゃん。

 声には出さずに彼の名を呟いて。
 臨也は笑う。
 笑ってすくりと。
 やはり静かに、彼の傍らに膝を付いた。
 彼の名は静雄。
 昼に逢うと、顔を見る度に道路標識やら鉄製のゴミ箱やらが飛び交う、命がけの追いかけっこに興じるような間柄の相手だ。
 最も、それを飛ばすのは静雄ばかりで、臨也はもっぱら逃げる専門だったけれど。
 そもそも、応戦するにしても臨也の所持する武器など、折りたたみ式のナイフぐらいなものなのだ。
 臨也は彼のことがすこぶる苦手だったし、彼の方も臨也を嫌いだと公言して憚らない。
 臨也もそう言われる心当たりなど、コップから溢れ出した水がもう二度と戻らないと言う程にはあるので、当然だとも思ってはいたが。
 臨也の方が彼を嫌うのは、嫌うと言うよりは本当に単純に苦手なのだ。
 だと言うのに臨也は時折・・・と言うよりは、決して少なくはない頻度で、たびたび彼の元を訪れていた。
 それは追いかけっこも予定に入れての昼間であったりもしたし、また今のように夜であったりもする。
 夜と言っても、静雄の怒りに時間など関係ないので、意識のない、深夜、と言うことになるのだが。
 夜に、彼の部屋へ訪れて。
 そして。
 何をするでもなくしばらくの間、彼の寝顔を見つめるのだ。
 ただそれだけ。
 それほどに大したことなど何もしはしない。
 そう、本当に大したことなどは何も。
 ただ、ほんの少しだけ。
 臨也は、眠る静雄の吐息に触れるように、そっとその細く白い指先を彼の頬へと伸ばした。
 臨也の、普通の男よりよほどしなやかな手の甲が、微か、窓から差し込む月の光を遮り、白い静雄の頬に新たな影を作り出す。
 産毛が触れそうな距離で撫で、だが触れず。
 そう、こうしてほんの少しだけ。
 ほんの僅かだけ。
 彼に触れたり、触れなかったりするだけなのだ。
 臨也は嗤った。
 幼い子供よりも無垢な彼の寝顔に。
 なんだかこみ上げる衝動を押さえることなんてせずに。
 そして。

「シズちゃん」

 静かに落とした呼びかけは、彼の肌に溶けて。
 しっとりと口吻ける。
 落としたのは唇。
 あるいは吐息。
 心。
 臨也そのものだ。
 触れない手を白い頬に添えて、ただゆっくりと口吻ける言葉。
 それは彼の唇へと。
 微かな。
 ほんの微かに、吐息の重なる瞬間は。
 ただそれだけで臨也の躰を熱くして。
 まるで何か、これ以上はない至福に、心が満ちるような気がするのだった。
 臨也は笑う。
 しっとりと今しがた触れあわせた唇をほんの少しだけ離した距離で。
 ぬるい息を彼の頬に駆けながら。

「シズちゃんは、ほんとにずるいよね・・・」

 今だって起きてるくせに。

 絶対に目を開けたりはしないのだと。
 恨み言のように甘く囁いて。
 幾度となくしっとりと唇を触れ合わせて。
 その至福に酔って、酔って、酔って。
 気が澄むまで唇を彼のそれと合わせたら、やがてすと、身を離すのだ。
 そのまま、来た時と同じように静かに立ち上がる。
 振り返るのは一度だけと決めていた。
 ただ、扉を閉めるその瞬間だけ。

「じゃぁね、シズちゃん」

 また来るよ。

 唇だけで、呟いて。
 静かに。
 その部屋を後にするのだった。
 まるで無垢な彼の肌に触れた唇は。
 その吐息は。
 途方もなく甘かったと。
 そんな風に酔いしれながら。

 もう、幾度目とも知れない夜だった。
 月夜だ。

 触れ合わせた唇の先。
 吐息を重ねるその瞬間は。
 まるで小さな奇跡のようだと。
 静雄の方もまた、思っていることを知っていたから。

 これから先、幾つもの夜を。
 きっと臨也は訪うのだろう。
 決して。
 気付いていながらも目を覚まさない静雄が、それを何処かで待ち望んでいるのと同じだけ。
 彼もまたこの触れ合いに。
 どうしようもなく、焦がれている、その所為で。

 部屋にはただ、無垢な彼の寝顔が残される。
 その心情を置き去りにして。
 変わらない月の下で、二人――・・・。


Fine.


>>なんと言うか・・・一応、臨也→←静雄のつもり。まぁ、つもりはつもり、止まりですが・・・(汗)


(2010. 3.12up)


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