さわり。
 風が吹く。
 りりりんっ。
 涼やかに、硝子の音が鳴った。
 何処かで。




―― 風鈴 ――




 蝉時雨。
 噎せ返るほどの音。
 耳の奥で、鳴り響く。
 ざわざわと心が落ち着かない。
 落ち着かない。
 躰は鉛のように重く、ずぶずぶと沈んでいくようで。
 僅かな下生え。
 藺草の匂いが辺りに満ちている。

「――・・・・・・」

 ふと、何か聞こえた気がして、ゆるく瞼を押し上げた。
 見えるのは薄暗い闇だ。
 微かに眉根を寄せて、臨也は、不機嫌そうに、すぐにまた、瞼を閉じた。
 闇が深くなる。
 夜が・・・・・・深くなる。
 ざわざわと、耳障りな音が、耳の奥で、ずっと。
 蝉の声だ。
 他の何も聞こえないぐらい騒がしく、瞼の裏がチカチカする。
 今は、夜なのに。
 光なんて何処にもないのに。

「――・・・・・・」

 耳の、すぐ傍で。
 聞こえたのは、声。
 小さく。
 微かで。
 低く、心地よい、声。
 聞いたことのある声だと思った。
 否、慣れるほどに耳に馴染んだ声。
 なのに聞こえない、何を紡いでいるのか覚束ず。
 必死で追う。
 どうしても聞きたくて。
 その声を捕らえたくて。
 だのに。
 りりりん。
 硝子の音が鳴った。
 涼やかに、響くように。
 まるでそれだけが、他とは違う何かのようで、騒がしい蝉の声も、誰かの紡ぐ囁きも、全てを押し流して響き渡る。
 頭の奥で。
 奥の奥の方で。
 開かない瞼のまま、闇雲に上へと手を伸ばした。
 何かを掴むように。
 何かに縋るように。

「っ・・・――!」

 そして誰かを。
 声を立てて呼んだはずなのに。
 自分の声さえ、聞こえずに。





+++





「っ・・・!」

 はっと目を見開いた。
 辺りは闇。
 先ほどまでと同じ闇だ。
 だけど違う闇。
 なんだか奇妙な夢を見たとぼんやりと思う。
 だが、夢の残滓はするりと解けて掴めず。
 夜はまだ明けていない。
 ざわりと風が吹き込んできた。
 りりりん。
 酷く涼やかな音が一つ。
 嗚呼、風鈴。
 闇に慣れた目は、部屋の様子をはっきりと映し出して。
 見慣れた部屋だった。
 煤けた天井、褪せたような壁。
 自分の部屋ではない。

「シズちゃんの・・・」

 ぼんやりと呟いて、むくりと起き上がる。
 傍らの温もりが身動いだ。
 改めて思い返すまでもない。
 彼である。
 この部屋の主。
 ほんの数時間前まで、臨也と熱を合わせていた相手。
 決して仲などよくはない、だのにこんな夜は幾度もあって。
 今までも。
 多分、これからも。

「んっ・・・ぅ?いざ、ゃ・・・?」

 ぽやりと険のない声が、臨也を呼んだ。
 普段の彼からは考えられないほど、幼げな甘さで。
 臨也は笑った。
 小さく、微かに。

「なんでもないよ、シズちゃん。まだ早い。寝ていて」

 起き上がった上半身を、彼の上へと倒して、耳元に密やかに、息と一緒に流し込む。
 次いでちゅっと、軽い音を立てて、緩く開きかけた瞼に口吻けた。
 幼い子供を宥めるような仕草で。
 そうして彼が、覚束ない息の先、また、健やかな寝息を立て始めたのを確かめてから、改めて静かに起き上がった。
 寝る前には二人の上にかけてあったはずの、大き目のタオルケットが、彼の向こう側に追いやられているのに苦笑して、腕を伸ばして手繰り寄せる。
 再度、彼の上へと緩くかけてやって。
 裸の胸を申し訳程度隠して。
 自らは周囲に脱ぎ散らかしてあった、下着とジーンズを探り出した。
 出来るだけ気配を消して、簡素に過ぎる冷蔵庫から、ミネラルウォーターを1本取り出す。
 自分の家ではないのだけれど、勝手知ったるなんとやら、今更彼もこの程度で目くじらを立てたりなどしない。
 そもそも、自炊をしない彼の部屋の冷蔵庫には、それと、ビールぐらいしかまともなのもは入っていないのだ。
 ざらざらする壁に背を預けて、くぴりと冷たい水を喉の奥へと流し込んだ。
 さわりと風が吹き込んでくる。
 カーテンのない、開け放したままの窓には、りりりん、微かな風鈴の音。
 いつから吊るしっ放しにしてあるのか、褪せた埃塗れの硝子が、それでも澄んだ音を響かせていて。
 じりじりと、何処からか微か、虫の声。
 けたたましいばかりの蝉のそれとは違う、微かの音。
 今日は随分と気温が低い。
 だけどきっと、明日・・・否、もう今日か。
 今日も、暑いのだろう、窓の外を見るともなく眺めて。
 流れる雲の影を目で追った。
 視界の端で、彼の真白い躰が、ぼんやりと夜に浮かび上がるようだ。
 ことりとペットボトルを傍らに置き、タオルケットの端から覗く、白い素足に手を伸ばした。
 少し硬い、だけど何処か他の誰とも違う滑らかな肌。
 女のように柔いそれではない。
 手に当たる毛が薄くとも、それでも間違いなく、それは男の足だった。
 骨ばっていて、角が鋭いばかりなのに。
 どうしてこれほどに、自分は。
 くすりと。
 口の端で笑った。
 彼の横に、躰を横たえる。
 猫のように背を丸めて、身を縮めた。
 仄かな温もりが、立ち上るように伝わってきて。
 シズちゃん。
 声には出さずに、口の中でだけ彼の名を呟いた。
 まるで焦がれるように。
 シズちゃんシズちゃんシズちゃんシズちゃん。
 縋るようにして手を伸ばす。
 ぱさぱさする金の髪の端を掴んで。
 それをきゅっと握り締めて目を閉じた。
 風が吹いて。
 りりりん。
 風鈴の音が鳴って。
 ほんの少しだけ、さっきとは違うような気がした。
 夢の残滓が蘇ってくる。
 もうきっと。
 さっきの夢は遠くて。
 彼は此処にいた。
 呼んだのが誰かなんて、そんなもの、決まりきっている。
 それ以外なんてありえない。
 思うまでもなく、それは確かなこと。
 嗚呼、もうじき夜が明ける。
 りりりん。
 涼やかな夏の音、一つ。



Fine.


>>さっぱり意味のない雰囲気SS。どうにもこうにもまとまりが悪いですがまぁ、気のせいということで・・・。


(2011. 5.17up)


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