朝ぼらけ。
 明けていく空を見る。
 狭く。
 息苦しく。
 だが、他と何も変わらない遊郭の空。
 しゃらり。
 鈴の音が聞こえて。
 静雄は振り返らない。
 振り返らない、けれど。
 振り返らない、ままで。
 ばさりと、長い睫毛を伏せた。

「・・・・・・――また来たのか、お前」

 零れ落ちる声には、退廃が滲んで。
 ぽつりと。
 闇へと届く。
 それは、紅色の―・・・・・・。



―― feather of morality 1 ――




「シズちゃん」

 そいつはいつだって人知れず訪れる。
 ひっそりと。
 微かに。
 気配を殺して。
 気付けば後ろから抱き締められていた。
 静雄は眉根をひそめ。

「・・・・・・その名で呼ぶなって言ってんだろ」

 くそばか。

 呟いた。
 吐かれた息に潜む険に、気付いていないはずもないのに笑う。
 男だ。
 くつくつと喉の奥を鳴らして。
 しゃらり、鈴の音が部屋に満ちる。
 これほどまで近くにいるのに、それは何処か酷く遠く。

「だってぇー・・・シズちゃんはシズちゃんじゃないか」

 静雄を捕らえる腕に力がこもって、透徹な声は楽しげに弾んでいる。
 背筋が粟立つような、これは嫌悪。
 男の熱のない息が、無防備な首筋をくすぐり、静雄は一つ、深く、息を吐いた。
 ばさりと。
 長い睫毛を瞬かせて。
 この男には、何を言っても無駄だ。
 必死で自分に言い聞かせる。
 怒りを手のひらに押し殺した。

「・・・・・・臨也」

 呟く、小さく、微かに。
 だけど名は、言霊だ。
 存在を縛る。
 静雄が呼んだのはまさにそれで、男の動きが、ぴたりと止まった。
 ぶわりと、解き放たれた殺気は、男が怒った証し。
 静雄はもう一つ息を吐いて、するりと自分を捕らえたままの腕から逃れた。
 朝の光の中で。
 滲むような黒。
 それは黒い男だった。
 何処までも黒、真っ黒だ。
 黒い髪、白い肌、紅い唇を笑みで歪めて。
 暈けるような黒い着物は、ともすれば夜に溶けてしまいそうだ。
 常と何も変わらない風貌に、ただ、静雄は溜め息を吐くことしか出来ない。
 だってこの男には隠す気がないのだから。

「いざや」

 静かに。
 唇を揺らす。
 それもまた、言霊。
 引かれた紅が舌先に触れて苦い。
 ほっと男は息を吐いた。
 辺りを満たしていた殺気は、一瞬の内に消えている。
 はじめから男には、静雄をどうこうするつもりなどなかったのだろう、先ほど静雄を捕らえていた腕も甘く。
 静雄はしゅるりと衣擦れをさせて、開け放たれたままだった、外へと続く格子を閉じた。
 とんっと、微かな木音をさせて、遮られる外界の気配。
 こもる空気に男が笑った。

「よかったの?逃げ道閉ざしちゃって」

 しゃらり、鈴の音が響いて、引かれる手に逆らわず、静雄は、やはり甘い腕の中に落ちる。
 ぺろり、耳朶を這う生ぬるい感触は男の舌だ。
 紅く、紅く、静雄の唇に引かれた紅よりもよほど紅いそれ。

「っんっ・・・くっ・・・!」

 今更だろう、伝えようとした声は、次いで立てられた犬歯に息を詰めるのに遮られ。
 ぷつり、肌の破れる音が、蝋の揺れる音しかしない空間に響いて。
 しゃらり、鈴の音は、男の足首に嵌められた肢体飾から。
 そこに連なる鈴は、男が動く度に軽やかな音で鳴いた。
 消えかけた燭台の灯がゆらりと歪んで、じりりと軸が焼け焦げる。
 長く伸びた影は黒。
 ただ黒だ。
 静雄の首筋から滲んだ血が、じっとりと落ちて、襦袢の白いかえしに赤茶けたシミをつけた。
 それに、なんとはなし視線をやりながら、静雄は柔い手つきで黒い髪を梳いた。
 さらりと。
 指にこぼれる、他の何と混ざるはずもない黒。
 蝋の灯が揺れて、影もまたぼやける。

「いざや・・・・・・」

 呼ぶ名は言霊だ。
 何処までも。
 何処までいっても。
 静雄は自分の力を知っている。
 自分が持って生まれた能力を理解していて、その名を呼んだ。
 ちりと、喉の焼ける感触がして、一つ、眉をしかめ、だが構わずに黒い頭を抱え込む。
 さらり、さらり、髪が舞って、そのまま、引き寄せるようにして背から倒れこんだ。
 褥へ。
 紅い敷布に寄ったしわは、まるで波のように衣擦れを響かせて、細く、あえかな静雄の息も、飲み込んで、包み込んでいく。
 しゃらり、鈴の音が鳴る。
 それは。
 それは。
 朝ぼらけ。
 まだ明けやらぬ空の中。





   +++





 朝やけを過ぎて。
 すっかり明けきった部屋の中、褥にうずまるのは静雄、ただ一人だ。
 ほんの数刻前まであった黒い男の影はいない。
 部屋の外では幼い童女たちの、きゃらきゃらしい声が響いていた。
 遊郭の、遅い朝が明けている。
 陽はちょうど中天。
 直に昼餉が運ばれてくるような時刻。
 ゆるりと持ち上げた瞼の先に見える天井は、何の影もない見慣れたそれ。
 静雄はふと、息を一つ吐いた。
 ゆるゆると紅い唇の隙間から漏れ出た空気は、白くぼやけるようにして大気と溶ける。
 鉄色をした燭台の中では、燃え尽きた蝋の欠片が僅か底にこびりついていた。
 閉じたはずの格子は開け放たれ、陽の光が眩しいほど静雄の肌をはじき。
 微か起こした躰、身動ぐのにどろりと胎から流れ出た体液が腿を伝い、その不快さと同じだけ・・・否、それ以上に気怠い手足が、昨夜の、また朝の行為が、決して幻ではなかったことを、否が応でも静雄に知らしめて。
 口汚く舌打ちする。
 それが行儀の悪い動作であるのはわかっていても。
 耐えたりなんてしない。

「・・・・・・臨也」

 呟いた名に拘束力なんてなく。
 どんな力も、こもっている筈もない。
 嗚呼、昼の光の中でこぼれるその言葉は、どれほど影のないことだろう。
 近づいてくる足音がした。
 ぎしりと床板を踏むのと、しゃらり、鳴る鈴の音は、今朝も、これまでも、飽きるほど聞いてきたそれ、だが、まとわりつくような重さのない軽やかな音だ。
 きゃらきゃらしい童女の声と・・・さざめくような女の応えるそれ。
 陽の光の下の此処は、暗いものなど何もなく。
 す、と、静かに引かれた襖に、ゆるりと視線をそちらに向けた。
 粗雑な、だが何処かしら品を残した仕草で、部屋に足を踏み入れたのは黒い男。
 しゃらりと鈴の音を響かせて、真っ黒な着物の裾をさばき、艶々とした漆黒の髪を揺らす。
 酷く整ったその顔は、今朝方飽きるほどに見た、あの存在とそっくり同じそれで。

「やっと起きた?シズちゃん」

 呼ばれたような気がして、来てみたんだけど。

 口の端だけで笑む。
 透徹なその声も、唇からこぼれ出る口調も、何も変わることのない男は、この妓楼の亭主だ。
 しゃらり、動く度涼やかな音をさせて、つと、伸ばした手で静雄の頬に触れた。

「っち。・・・呼んでねぇよ」

 逸らせる視線で、冷たい手のひらから逃れ、不快さに眉根をしかめる。

「あらら。ご機嫌斜めだねぇ〜・・・また狐でも出たの?それとも昨夜の客がしつこすぎたとか。なにせシズちゃん、うちで一番売れてるし」

 笑む眼差しは、凍えるようなのに、口調だけは柔く。
 くつりと、喉の奥で笑う。
 悪趣味にもほどがあると、静雄は内心で吐き捨てた。
 辛うじて腕に絡み付いていた紅い襦袢を引き上げて、襟を整える。
 躰の奥底から響くような鈍痛に唇を噛んで、すっくと立ち上がった。
 少しでも動く度、逐一足を伝う胎から流れ出る体液は、不快さしかもたらさない。

「狐を喰らいに来たはずの俺に、遊女の真似事までさせるお前の悪趣味に、これ以上付き合ってられるか」

 湯殿使うぞ。

 言い捨てて廊下に出た。
 背中で男が多分醜穢に笑っているのだろうことをわかっていながら。
 男と。
 だけど、交わす言葉などないと。
 鈴の音はもう聞こえなかった。
 狭い空の中には、今、陽の光が満ちている。
 その下で。
 ひらりと舞った羽は、幻以外の何物でもなく。
 だが確かに、静雄の軌跡。
 其処を満たす気配は、何処までも退廃で。
 鳴らない鈴の音に、静雄は絡め捕られたまま。
 明るい陽の光は、もう決して。
 静雄を、照らすことはないのだった。
 秋。
 朝ぼらけの先にて。


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(2010.10.13up)


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