目を覚ます。
これは夢、夢、夢である。
静かに。
ひそやかに。
目を・・・・・・覚ます。
「臨也」
こぼれ落ちた声は。
何処にも、届かずに。
―― feather of morality 4 ――
それはまるで光のただ中にあった。
ひたひたと躰へと浸透する、奥の奥まで満たされて。
闇の切れ端にかじりついていた意識がゆっくりと浮上する。
あたかも池に落ちた草の一つのように。
そう、それは光。
ぼんやりと。
瞼に落ちる。
そして静雄は睫毛を震わせる前に、その気配に気付く。
黒い気配である。
男だ。
黒い、ただ黒い、真っ黒な男。
まるで闇から溶け出したような、夜が人の形に固まったような、そんな男。
男は何も言わなかった。
静雄が目を覚ましたことに気付いていないのか、あるいは気付いて何も言わないのか。
静雄にわかるすべなどはない。
ただ。
「・・・・・・シズちゃん」
ぽつりと。
取りこぼすように辺りを震わせた呼気は、だが震えるだけで。
音を静雄には届けず、だのにはっきりとわかる、男が自分の名を口にしたことが。
それは、間違えようもない事実として其処にあった。
透き通って色もなく、人であるなら、あって当たり前な、ほんの僅かの温かみさえない男の『声』である。
滑らかな指の腹が、静雄の頬に触れて。
柔い気配が滑って、指はただ、頬に。
触れて。
静雄は瞼を震わせなかった。
目を閉じて、男の指をその肌で感じ、ひどく。
ひどく、胸が苦しくなるのだ。
ただそれだけ、それだけで。
「シズちゃん。どうして、どうしてだろう、君は・・・・・・――」
男の声は、色など持たない。
それが音となることもない。
だのに指が。
静雄に触れる、滑らかな指の腹が。
ただひたすらにひどく柔らかで。
黒い気配は光に満ちていた。
+++
ぱちり、目を開ける。
はっとなって身を起こし、辺りを見渡した。
光に満ちた部屋、静雄がずっと寝起きしている部屋だ。
朝の光眩しく、遠く雀の鳴く声が聞こえた。
開け放たれた障子の向こうで、陽が燦々と輝き、柔らかな緑が微かな風に揺れている。
ざわり。
ざわりと。
辺りに暗い影など何処にもなく。
・・・・・・――黒い男など、何処にもおらず。
静雄、ただ一人きり。
紅い褥はさらりと肌に優しい。
意識を手放す前にいた、静雄を貪るようにかき抱く、その日まで見たこともなかった男の影さえ、何処にも。
微かな痕跡もない。
だけど。
静雄にはわからない。
それが、今日の朝が明ける前の出来事なのか、それとも、もっとずっと幾日も前にあったことなのか。
日を、知るすべのないこの部屋で、静雄にわかるはずなどもなく。
それでなくとも、静雄にはもう、時間の経過一つ、わかりはしないのである。
常に重く、怠い躰が、ほんの少しだけ軽くなっている。
自分の血の通わぬかのように真白い手の甲を見て、静雄はそれに眉根を寄せた。
躰が僅かなりとも楽になっている、その事実に潜む事象に胸を痛めて。
「臨也」
言葉をこぼす。
あの男は今、この屋敷にはいないのだろう。
もし近くにあるのなら、静雄にわからぬはずはないし、また目を覚まして、幾らか経っているのに、姿を現す気配さえないということが、現状ありえるはずもなかったので。
どれだけ、静雄に苦心しているのだろう、あの男は。
今の静雄の傍には、絶えずあの男がいた。
それこそ、男が、何か所要で、どうにも傍を離れずにはいられないような時以外は、常にだ。
静雄が起きてても、寝ていても、他の誰かに触れられていても。
常に。
だから、今、あの男はいないのだろう。
少なくとも、この近くには。
ただ、まるでその代わりのように草の影が揺れた。
庭の端、ぎりぎりの場所。
慣れた、それでいて異質な気配。
ぱちりと、一つ目を瞬かせる。
「京平」
今まで幾度となく舌に乗せてきたその名を口にする。
ためらいなどあるはずがない。
がさり。
木々が揺れて。
萌黄の狩衣を身にまとった、しかつめらしい顔の男が立ち上がった。
門田だ。
風が舞う。
日向の光はひどく眩しい。
静雄は目を細めて、どこか懐かしそうに男を見た。
何処か褪せたような、だが若々しいその姿は、それこそ彼が静雄のもとを訪っていたのとまったき同じそれで、かきたてられる郷愁が、止めようはずもない。
「静雄」
門田は聞きなれた声で静雄を呼んだ。
何かを乞うように。
あるいは何処か祈るように。
がさり、草を鳴らして、門田が一歩身動いだ。
「駄目だ」
その足を、ただ一つの声で止める。
駄目だ。
緩く首を横へ。
苦く寄せた眉、こぼれるような金の髪をしゃらりと鳴らして、目が冴えるような濃い緑を、視界の外へと追いやる。
緑。
それはまるで夏の最中の鮮やかさで。
思えば、今の季節はそうなのかもしれない。
だが、門田の額に浮いた汗が、暑さの為なのか、もしくは他の要因によるものなのか、静雄は知りたいとは思わなかったし、また、そうでなくとも、熱さも寒さも、今の静雄には感じられるものではないのだった。
門田は動かなかった。
踏み出しかけた足を戻し、伸ばしかけた指も、胸の上できゅっと握り締めて。
静雄の制止の意味が、何も違わず門田に通じたからだ。
否、はじめからわかっていて、足を進めようとしたのだけれど。
静雄のたった一言で躊躇ってしまった、それは門田の無力ゆえだ。
「だが・・・だが、静雄。此処はすでに知られているんだぞ」
誰に、とは伝えずとも静雄にはわかったことだろう。
静雄は。
ただ緩く首を振って。
ふと、伏せていた瞳で、ひたと男を見つめて。
そして緩く口の端で笑んだ。
それは何処か張り詰めて。
こぼれ落ちそうな笑み。
「京平。お前は駄目だ。その先へ進むことの意味は、お前にだってわかっているだろう?わかっていて、その足を動かそうとしたんだろうけどよ、それでも。・・・・・・駄目なんだよ。アイツが来る。其処を一歩でも踏み越えたら、アイツはすぐにでも飛んで戻ってくるだろうな。それだってお前はわかっているはずだ。でも。・・・・・・だからこそ。お前は駄目だ」
駄目なんだ。
首を振る。
ふるり、ふるりと。
緩く。
だが、これ以上はない、はっきりとした拒絶でもって。
ギリ。
下ろされた男の両手が、その躰の横で、力の限り握りこまれる。
皮膚を破ったのだろう、爪の端から一筋の赤が、地面へと滴り落ちた。
それはまるで静雄の脳裏に。
焼きつくような赤なのだった。
知っている、わかっている、夢は醒める。
醒めるんだ。
醒めない夢なんてない。
だけど。
いまだ此処がアイツの夢の中であることを、俺は知っていて。
だから。
今が。
何の季節なのかさえ、静雄にはわからなかった。
紅い褥はいつも変わらず静雄を包んで。
陽の光はいつだってその部屋へと射しこんだ、まるで箱庭のような不変の中で。
だけど静雄はわかっていたのだった。
これが・・・ただの夢にすぎないことを。
ただ。
それだけを。
風が吹く。
それは・・・変わらない風。
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>>実はこれで中間ぐらい。
(2010.11.18up)
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