「あいつらが来るね。そうでしょう?来るのは誰かな・・・ねぇ、シズちゃん」
くつくつと喉の奥で笑う、それは何処が楽しんでさえいるかのような声で。
静雄はそっと瞼を伏せる。
濃い緑が風に。
ざわざわとざわめいていた。
―― feather of morality 6 ――
風が。
ひどくざわめいている。
静雄はゆるりと瞼を押し上げた。
男の滑らかな裸の腕が、囲うように静雄を抱いている。
その二の腕に頭を預けるようにして、静雄は意識を飛ばしていたようだった。
薄く射し込む陽は茜色。
夕闇である。
臨也、と。
名を呼ぼうとしてやめた。
口をつぐむ。
ふるり、瞼を震わせて。
仰ぎ見る男の睫毛の、なんと長いことか。
思えばこの男の寝顔など、静雄は見たことがなかったのだった。
一度として、だ。
寝顔どころが、静雄が目を覚ました時に、この男が傍にいたことさえまれで。
整った造作、白い頬に、そぉっと指を伸ばす。
熱いも寒いもわからなくなっている静雄の肌は、だけど男の熱さだけは歪めず伝えてくるから。
温かい滑らかな頬に、紅い陽が射して、なんだか静雄は胸が苦しくなった。
臨也。
唇は震えずに。
ただ噛み締めるだけである。
臨也。
「シズちゃん」
静雄の。
声が、聞こえたはずもない、だのに男の紅い唇が震えて。
応えるように、いつもと同じ声、同じ調子で静雄を呼んだ。
甘やかな吐息。
男がゆるりと笑む。
開かれた瞼の中、鮮やかな紅玉も緩んで。
赤い光は斜めに射しこんで、視界全部を紅く染め上げていく。
静雄の。
腰を柔く抱いていた男の手が這い上がってきて、こぼれるような金の髪を一房摘んだ。
それもまた紅く。
風が吹き込んでくる。
眩しく。
濃い、緑の風だ。
男の指がさらと髪をこぼして、ぼんやりと薄く開かれた静雄の紅い唇を圧した。
何も言わなくていい。
言葉なんて少しも必要じゃない。
言うように親指が口の端を撫でて。
つぷり。
挿しいれられたそれ、つるとした爪が舌先にあたる。
男は笑んでいた。
紅い瞳を歪めて。
はじめて見るような、ひどく柔和な顔をして。
つと。
強く抱き寄せられる。
躰がわななくように震え、ぎゅっと胸が苦しくなった。
辺りは紅く、紅く、紅ばかりが視界を焼いて、他には何も目に入らない。
黒い男の白い肌も、闇のような黒い髪も、紅い褥も、全部、全部が真っ赤に染まって。
まるで燃えているようだ。
触れる肌も燃えるように熱くて。
「シズちゃん」
耳の後ろで聞こえる男の声は透徹で透き通って色がなく、だのにどうしてこんなにも今に限って甘いのだろう、臨也。
唇を震わせた。
名を。
そのあわいから滑り落とす代わりに、滑らかな肩をかき抱く。
臨也。
心が震えた。
辺りは紅い。
紅い、紅い、血のように、燃えるように紅い赤。
男の瞳の色である。
男の肌は熱く。
静雄は息が苦しくなった。
臨也。
男の手が、静雄の肌を這い、辛うじて羽織られていた真っ赤な襦袢を、その細い肩から滑るように落とす。
「ぁっ・・・はぁっ・・・」
息を吐く。
意味など持たない喘ぎがもれて、それを圧し留めようとすら思わない静雄は口を微かに開けて、空を吐き出していた。
静雄は口が聞けないわけでも、声が出ないわけでもなかった、だた男にかける言葉を、欠片たりとて持たないだけで。
だからこぼれ出る吐息が全て。
紅い、紅い、紅い視界。
血のように紅い。
燃えるように熱い。
脳裏がぐらりと揺れて。
「シズちゃん」
耳の奥に滑り込む男の声も、息を掠れさせている。
首筋をぬるりと舌が這った。
唇まで上がってきては、紅い果実を食み、滑らせては頬を啄ばむ。
ちゅっと微かな音が何度も何度も耳に届く。
紅い音だった。
しゃらり、ちりん。
男の足元で鈴が鳴る。
しゃらり。
ちり。
涼やかに、軽やかに、闇を乗せて。
しゃらり、ちりん。
「ぁっ・・・ぁあっ・・・!」
下肢へと這わされた手に静雄は荒く、息を吐き出した。
仰け反らせた首筋は白く細く、そして紅い。
ぎゅっと。
男は縋るように静雄を抱きしめて。
まるで初めてだと思った。
臨也。
躰全部で抱きついてくる男は異形だ。
例え人の形を取っていたとしても、その存在は揺るがない。
静雄はそれをわかっている。
わかっていて、夜を映し込んだかのようなその真っ黒の男の髪をかき抱いた。
静雄はわかっている。
男を抱くこの腕が、まがい物であることを。
自分の躰が、疾うに。
「シズちゃん・・・」
静雄の思考を遮るように、男が声で、静雄の耳朶をくすぐった。
紅い、紅い、血のように紅い。
熱い、熱い、燃えるように熱い。
しゅるり。
男の手が、しどけなくまとわれている襦袢を留めていた帯を解く。
微かな衣擦れ。
男の熱い指が、滑らかな肌を這って。
胸の尖りを掠め、臓腑を緩くなぞった。
そのまま揺れる、引き連れたようなそれは。
腑の、僅か下から臍を掠めるほどの場所へと広がったそれは。
消すことの出来ない傷痕で。
臨也。
言葉は声にならず。
だが、空気を滑って、紅く堕ちていく。
男の指はまるではじめてのように柔く。
これまで覚えがないぐらい、微かな指で高められて、静雄は震えを止められずにいるのだった。
ああ。
意識ごと紅く染まって。
風が吹く。
ざわざわと。
予感めいたざわめきで。
これがきっと、さいごの・・・・・・――。
+++
「・・・ん、・・・ちゃん、シズちゃん」
幾度となく名を呼ばれて、ぼんやりと意識が戻ってくる。
ふと、自分に触れる手は柔く、覗き込む紅い視線は緩い。
見慣れた天井に揺れる影もまた、紅かった。
だが、さっきまでよりはずっと暗く、時期に夜の帳が落ちてくるのだろうと思われる。
ずちゅり。
身を犯される熱に揺らされて、静雄は思わず眉根を寄せる。
「くっ・・・ぁっ・・・」
絶えることなく息を吐いて、ゆらり、持ち上げた手で男の滑らかな黒髪を掻いた。
くしゃくしゃと。
指に通る艶やかな黒髪、今はただ紅く。
「くす。何処に飛ばしてたの?シズちゃんてば。俺は今此処にいるのに」
男は笑んでいる。
笑んで、静雄の意識が、今、ほんの僅かの間、この場所になかったことをからかった。
指に揺れる髪をひっぱって、抗議を示したら、男はますます笑みを深めて。
「いった・・・ちょっと、ひっぱんないでよ。まったく。シズちゃんてば」
男の声は、柔く。
だけど柔く。
静雄の目じりに落ちて、滑って、それは羽のように軽い口吻けで。
ちゅっと。
柔らかな音が降り注ぐ、唇の端へ、頬へ、瞼へ。
そして耳朶へ。
紅が揺れて。
風がざわめいている。
ざわざわと。
ざわざわと。
まがつ風が、ふと止んだ。
「・・・・・・ねぇ、シズちゃん」
男の手が、指が、縋るように静雄をかき抱く。
ぱちり。
何かが爆ぜる音が遠く響いて。
気配に混じったのは、燃えるような。
火の、気配なのだった。
「来たね」
あいつらが来たね。
柔い声は、揺れている。
それは終焉。
もう、始まることのない、確かの・・・。
終わりの、階。
男の手は、柔かった。
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(2010.11.23up)
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