「臨也」
臨也。
いくら名を呼んだところで、もう届きはしない。
届きはしないんだ。
そんなことばかり、思い知る。
―― feather of morality 7 ――
ぱちぱちと、火の爆ぜる音がしていた。
どうして、気付かずにいられただろう。
どうして、気付くことが出来ただろう。
「シズちゃん」
遠慮がちに、黒い髪をしどけなく結い上げた造作のきれいな女性が静雄を呼んだ。
静雄をそう呼ぶのは、そうとしか呼べぬ者達だけ。
狩沢。
つまり、門田の式である。
静雄は、振り返らない。
ぱちりぱちりと火が爆ぜて、真昼の遊郭を紅く染め上げている。
女達の逃げ惑う声が聞こえた。
だが、彼女らを害すつもりはないのだろう、幾人かの黒い狩衣の者達が、童女や、女性達、あるいは此処で立ち働く者達を誘導しているのが見える。
害すつもりがない?
はは。
おかしな話だ。
彼女らの寝床を奪っておきながら、そんな所ばかり偽善者ぶる。
否、それは理にかなっているのかもしれない。
多分、あぶりだしたいのは狐ただ一匹であるのだから。
静雄は、動かずにいる。
ただ、火の爆ぜるのを見て。
ちりりん、しゃら。
鈴の音が聞こえた。
それは暗い、夜を統べる音。
「狩沢」
厳しい声で呼ばわると、彼女は思わずと言ったように片膝をついた。
「はい」
小気味よい、短い返事が一つ。
ちりりん、しゃら。
また、耳の奥鈴の音が近くなる。
「お前は門田の所へ戻れ。・・・・・・伝令も、必要だろう?」
「でもっ・・・!」
「いいから。行け。足手まといはいらねぇんだよ」
躊躇する彼女を、露悪的に笑うことで諌めた。
だけど、彼女とて、伊達に門田に長く仕えてはいない。
静雄のことだってよく知っている。
ただ、悲しげに眉根を寄せて、唇を噛み締めて頷いた。
ぱちぱちと火が爆ぜて。
視界一面真っ赤だ。
直に此処へも火が回ってくることだろう、黒い煙が空高く舞い上がっている。
「今ならまだ、この一角を抜けることも容易だろう。さぁ、早く!」
追い立てるように振り返り、もう一度言葉を重ねると、やっと彼女も立ち上がる。
「すぐ・・・戻ってくるからね!無茶しちゃダメなんだからね!」
言いながらたなびく煙のように、一陣の風が空に向けて舞い上がった。
その軌跡を追う。
彼女らしい、鮮やかな茜色の軌跡だ。
ちりりん、しゃら。
それと入れ違うようにして鈴の音が高くなった。
ちりり。
かたり。
背後の扉が開く音がして、静雄は思わず片頬を歪めた。
「よぉ。遅かったじゃねぇか、くそ狐」
振り返る。
相手を馬鹿に仕切った顔を作って。
振り返る。
しゃらり、鳴る鈴の音と、夜を溶かし込んだような黒い男を。
「よく言うよ。彼女が逃げるのを待ってあげたんじゃないか。むしろ感謝してほしいぐらいなんだけど」
肩を竦めて、真っ黒な男が笑った。
瞳だけはぎらぎらと、紅く、静雄を睨み付けながら。
ぱちぱちと、爆ぜる火が。
すぐ其処まで迫ってくる。
「ねぇ、シズちゃん。これは一体どういうことだろうね。俺の家が燃えちゃってるよ」
結界も張ってあったはずなのに。
男から、ゆらりと影が立ち上る。
黒い影だ。
影は尾のように伸び、分かれ、静雄の影に絡みつく。
「臨也っ!」
呼んだ名は、呪縛。
ぴしりと固まったそれから、後ろに跳び退ることで逃れた。
窓の外へ抜ける。
3階分ほどあった高さなど、どうということがあるのだろう。
危なげなく地面に足をつけた。
裸足の下で、熱せられた砂が熱い。
ぱちぱちと火が爆ぜて。
辺り一面真っ赤だ。
真っ赤だ。
「はは。おもしれぇこというじゃねぇか。どういうことだ?お前だってわかっていたはずだ!」
これは予測できた結果の一つ。
頭の言いあいつに、わからないはずがない。
さっき前で静雄のいた窓から、黒い男が能面のように、動かない表情で静雄を見ていた。
ぞくりと、背筋を冷たい何かが這い上がる。
指先が痺れ、妙な高揚感を、静雄は覚えていた。
真昼の陽。
空は高く、青い。
薄紅が風に乗って舞い、火に煽られて、高く、高く昇っていく。
ゆらり。
黒い影が揺らいだ。
ついでぶつかってきた衝撃を、両手を構えることで退ける。
後ろへと。
また少し、飛び退った。
火が近い。
ぱちりぱちりと、空気を焦がす火である。
静雄には何の準備もない。
だがそれが静雄の怠慢・・・否、選択であることも確かで。
哀れだった。
目の前で黒い男が揺れている。
背後から立ち上らせるそれは怒り。
「シズちゃん」
声音だけは柔く、だが何の温度も乗せない声で静雄を呼ぶ。
ゆらり、ゆらり。
影が揺れて、火の赤が、男の黒い着物を染め上げる。
シズちゃん。
何度そう、呼ばれただろうか、男に。
静雄は知っていた。
男が、静雄の元へ、初めて訪れた時から、ずっと。
わかっていた。
男は異形である。
それ以外の何者かでなんて、あるはずがない。
だから。
これは、静雄の選択だった。
「臨也」
静雄の声は、静かに落ち。
まるで水面を走る、一陣の風のよう。
静かに。
微かに。
だけど確かに、男を縛り付けるのだった。
なぁ、これは夢か?
ああ、夢だよ、夢だ。
性質の悪い夢。
あるいは幸福の残滓。
もう戻らず、だが違えられず。
この手からすり抜けていく。
俺は知っていた。
知っていたんだ。
はじめから、ずっと。
臨也。
紅い羽根がひとひら。
ひらり。
空高く舞い上がった。
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(2010.11.24up)
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