初めはただの偶然だった。
だが、臨也は今、その偶然に感謝している。
―― midnight sun light 1 ――
波江も返してしまって、自分以外の誰の気配もしない自室で、ふと目に止まったカレンダーに、臨也は驚愕した。
深く腰掛けていたデスクチェアから、あわてて身を起こす。
まずい、うっかりしていた。
今日は。
呟くでもなく、心でごちながら急ぐ、着慣れたコートを拾うのももどかしく、足を止めないままに袖を通した。
バタリ、音を立てて閉じた扉の向こうは常と何も変わらない整えられた自分の家で、いつもなら戸締り等に充分に気をつけるのに、今はそれを確認する余裕もない、それでも、習慣だろう、流れる動作で鍵を閉めれただけましか。
時刻は闇。
夜も遅い時間。
エレベータを待つことすら出来ず、階段を駆け下りる。
暗い夜は濁って、晴れ渡った夜空は、星で埋め尽くされているはずなのに、東京のぼやけた空気は、微かな灯りさえ遠のかせる。
冷えたそれは刺さるようで肺に痛い。
駆け下りる足と、吐き出す息の荒さは多分きっと焦りから。
臨也は悔いていた。
臨也にしては酷く珍しいことに、気付かなかった自分を、だ。
陽は疾うに暮れて、こんな時間だと、もう。
必ずと言うのではない。
だが、できるなら今日を忘れたくはなかった。
そう、今日は。
新月なのだ。
+++
駆けずり回る街は、何処も、何も変わらず。
だが、経過する時間と共に、焦る心にはもとよりほとんどない余裕が、それでも更に削られていく。
見慣れて穢れた街の中で。
いくつかの心当たりを経由して、辿り着いたのは歓楽街から程よく近い、寂れた路地裏。
奥まった狭い袋小路の奥で、幾人かの乱れた息遣いが響いていた。
同時に響く水音と、
「あぁぁんっ・・・!」
堪えるつもりなど微塵もないのだろう、聞き覚えのありすぎる喘ぎ声。
反吐が出そうだ。
艶めいて、高く。
普段からは到底考えられないような声を出して、彼は喘いでいる。
「はっ、あっ、らめ、もっとぉぉ・・・っ!!」
声に合わせるようにして、複数の息遣いと衣擦れ、そしてびちゃびちゃと秀麗な音が当たりに撒き散らかされていた。
鼻をつく饐えた匂いは汚泥の腐臭と混じって吐き気さえ催す。
ぎりりと唇を噛むことで堪えた。
今自分がしなければいけないことは、吐瀉物をばら撒くことではない。
滑稽だった。
いっそ自分が、無様で。
「・・・はは」
あはははは。
あはは。
ははははははは!
口の端からは意味のない笑い声が漏れ、気付いたのだろう幾人かが動きを止めた気配。
構わずに。
それまで身を隠していた角から滑るように踊り出て、誰かが反応するより早く彼らの間を駆ける。
通り過ぎた後には、血を流しながら昏倒する数人の男。
ぴたり、残る一人の前に立って、どうでもよさそうに彼らを数えた。
ひぃ、ふぅ、
「みぃ・・・三人か。今日はそれだけですんだことを。俺は誉めるべきなのかな?」
振り返る。
残る一人。
つまりは臨也が、こんなにまでして探していた人物。
だらしなく床にへたり込んで、片足に絡まったスラックスにも、肌蹴れた白いカッターシャツにも、汚泥より醜悪な白濁が飛び散って、何処も彼処も綺麗な箇所などないような状態で、ぼんやりと臨也を眺めている。
それは。
差し込む闇、星の光りさえなく、街燈も遠く。
だが、真の闇には落ちてしまわない街の喧騒のはずれで。
痛んだ金の髪は、褪せて、だが色鮮やかに。
臨也は苦しくなった。
苦しくなって、そして笑って。
多分。
こちらを、少しだって認識していないだろう彼に向かって言葉を投げた。
その言葉を。
彼が、拾わないだろうことを、知っていながら。
ねぇ。
「シズちゃん?」
池袋の自動喧嘩人形として有名な、平和島静雄。
その、臨也が、話しかけた彼は。
暗い路地裏で、ただ。
昼と少しも同じではない状態で、茫洋とした瞳を泳がせて。
静かに、其処にあるのだった。
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>>あれ、これ臨也んが割りとまとも・・・(お前臨也んをなんだと思ってるんだ)
(2010. 3.25up)
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