―― not happiness, not smile 2 ――
「最近さぁ、赤いのが目立つよねぇー」
「そうそう!こないだも・・・・・・」
「なんだっけ?野球みたいな名前の、」
「きつねでしょ?赤い――」
レッドフォックス!
+++
その日も街はざわついていた。
繁華街や駅を中心に、活気にあふれ、人の途切れることがない。
特に夏も近くなったこの時期は、常より早く授業の途絶えた薄着の学生達が闊歩し、いまだ過ごし辛いほどではない陽射しの下で、きゃらきゃらと若々しい声を響かせていた。
池袋である。
彼の伝説のような喧嘩人形がいなくなって三ヶ月。
季節は六月も後半を迎え、気鬱と怠惰が街を支配するのにもまだ少しだけ早い頃である。
少女は走っていた。
黒い髪を揺らし、汗でずり下がってくる眼鏡を押し上げることすら厭わしげに、ただ、人通りの他よりは少しだけ少ない裏通りを走る。
荒い息が肩を伝い、熱を持った空気へと溶け出していく。
少女は後ろを振り返った。
足跡はまだ彼女を追っている。
それは本来、彼女にとっては恐怖ではないかもしれない。
だが、事実がどうあれ、そういった状況に陥って、恐怖を抱かない存在などいはしないことだろう。
特に彼女はまだ高校生である。
途絶えそうに息を切らして、何度も何度も振り返って、だけど足を止めることも出来ずに。
晴れ渡った青い空が、影になった建物の向こう、足元は酷く暗い。
明るい陽射しが、どんどんと狭まっていく。
はぁ、はぁ、はぁ。
路地裏には少女の息遣いが響いていた。
突き当たった目の前の壁に、なすすべもなくくるり、躰を返し。
ぼたり、流れ落ちた汗が頤の先から放れて、アスファルトを黒く汚していき。
風の吹かない路地の端で。
ゆっくりと。
さっきまで彼女を追って、同じように走っていたはずなのに、少し手前でぴたりと足を止めた影が、ゆっくりと。
影の中から姿を現す。
はぁ、はぁ、はぁ。
男である。
影のような黒い様相は醜穢。
袖口に腕章のように巻きつけた赤だけが禍々しく男を彩っていて。
荒く、肩で息を吐いて、だが、顔を奇妙に歪めたままだ。
口端はつり上がって、それは酷く不自然な笑みをその顔に形作っている。
「は、ははは。やっと追いついたよ。酷いじゃないか、逃げるだなんて。俺はこんなにも」
男の声が、奇妙に揺らいだ。
揺らいだまま、ゆらり、ひたりと彼女に近づいていく。
はぁ、はぁ、はぁ。
じり。
後退った少女の足が、砂を踏みにじった。
荒い息がカタカタと震えて。
自らを庇うように躰の前で組まれた手が、息と同じようにかたかたと震えていた。
耳の奥で声がする。
それは少女がいつも聞いている声。
目の前の男は、本来なら彼女にとって、恐怖の対象になどなるはずもなかった。
だが。
「何が・・・目的なんですかっ・・・こんな・・・こんなっ」
震えたままこぼれ出た声は、常の彼女のそれよりも幾らも掠れて。
男が手を広げた。
こんな季節だというのに、着込んだ上着の袖口から、ぱらぱらと何かを振り落とす。
服についた布端の赤が、ひらめいた。
其処から切り離されたように空に舞ったそれは、紙切れである。
ただの紙ではない。
小さく、大きく、切り刻まれたそれには、すべてに少女が写っていて。
はぁ、はぁ、はぁ。
ゆらり。
少女に近づいていく、男の息が荒い。
男の唇は、奇妙な笑みの形。
血走った目は瞬きもせず、ただじっと少女を見つめていた。
じり。
少女がまた一歩後退る。
ぼたりと。
汗がまた一つアスファルトに落ちた。
男と少女との距離は、もう然程もない。
ほんの少し。
あと、ほんの少しだけ、男が近づいてきたならば。
きっと。
もう、手が届いてしまう。
男がゆらり、一歩を踏み出して。
影が酷く、暗くなった。
その時だ。
何処からともなく、遠くから、馬の嘶きのような声が響いてきたのは。
それは、彼女には耳慣れた――・・・・・・。
+++
時間は少し遡る。
きっかけは・・・そう、二ヶ月前。
春だった。
否、初夏の風を孕んで、春も遅く、だが芽吹く花の鮮やかな頃。
はじめは一通の手紙から。
カタリ。
一人暮らしのアパート、帰宅した少女はふと手をかけた郵便受けから、落ちた一通の手紙を拾った。
行儀のいい様子で身をかがめて。
園原 杏里 様。
表の宛名書きは、少女の名前だけ。
不思議に思って首を傾げ、差出人も切手もないそれ。
しげしげと見つめて。
捨てることもせず、部屋へと持ち入る。
何の変哲もない、何処にでも売っているような白い封筒の中で、入っていた紙も白。
書かれていた文字は、赤かった。
言葉はたった、一言だけ。
『いつも、見ています』
「いつも、見ています?」
学校にて。
四月終わりの気怠い教室、一時限目と二時限目の間の休憩時間。
実のあるようなないような噂話に花を咲かせるクラスメイト達を尻目に、少女は常と変わらない様子で、こっくりと頷いてみせた。
件の手紙を前にして。
翌日だった。
趣旨のわからない身に覚えのない手紙を、少女はどうすればいいかわからず、かと言って何故かしら無視してしまうのも気が咎めて、学校に持ち込んだのである。
「ええっ?!」
少女と対峙していた少年は目をまん丸にして驚いて。
「そ、その手紙って、昨日初めて届いたの?」
恐る恐ると確認する。
話す相手を少年と定めたのは、彼ならばこういった事象に、何故か詳しいような気がしたからだ。
ざわついた教室の中で、二人のいる場所だけが静か。
まるで流れる空気が違いでもするかのようだ。
少女はまた一つ、静かな眼差しで頷いて、少年は流れる冷や汗を感じながら、ゆるりと目を眇めて俯いた。
彼の心情を、少女が知るはずがない。
だけど。
「それって・・・ストーカーなんじゃ・・・・・・」
ぼそり、呟かれた声が、少しく硬いことはすぐにも見て取れて。
「そうなの、かな・・・?それだけしか、書いてなかったから・・・」
わからないん、だけど。
小さく、口の中で呟いた。
少女ははっきり寡黙である。
否、単に口数が少ないだけか、人見知りというのでもない、機知である目の前の少年と一緒にいても、小さく笑って頷いていることが多い。
その少女が持ち込んだその手紙は、何処か異様な雰囲気でもって少年の手の中にあった。
真っ白い封筒。
真っ白い便箋。
真っ赤な文字。
一言だけの文字。
異様だと感じるのは、文字が赤いからか。
あるいは。
少年は眉根を寄せた。
くっきりと嫌悪をこめて手の中の白い紙を、赤い文字を睨み付ける。
「気をつけた方がいいよ、園原さん・・・こんなのなんだか、気持ち悪いし。僕も。調べてみるから」
顔を上げた少年は、酷く厳しい眼差しをして。
「わかった・・・気をつける。ありがとう、竜ヶ峰くん」
思っていたとおりの彼の反応に、ふわりと少女は笑って。
なんだか心が軽くなったような気がした。
ただの手紙だ。
差出人もなく、切手もなく、真っ白な封筒に真っ白な紙、赤い文字は一言だけ、普通の手紙とは言い難く、何処かしら気味悪くすら思うが、それでも。
ただの、手紙だった。
誰かの悪戯かもしれない、それに彼も、調べてみてくれるという、どうということはないだろうと、少女は思っていたのだ。
その一通の手紙は。
ただの始まりに過ぎなかったけど。
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(2011. 2. 9up)
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