「折原さん、どうぞ」

 真昼の区役所で、クソむかつく名前が呼ばれて、思わず辺りを見回してしまった。
 よもやよりによってこの場に。
 あの男がいるのではないかと疑ってしまって。
 だけど。

「折原さん?あぁ、いらっしゃいましたね。どうぞ」

 受付のお姉さんが目で探し、呼びかけた先にいたのは俺だけで。

「は?」

 頭に疑問符を飛ばしながら、窓口に立つ。
 確かに自分は書類の関係で、急遽必要になった住民票の写しを発行してもらおうと、申請書を提出していたのだけれど。
 でも。

「申請書のお名前が旧姓になってましたよ。次回から気をつけて下さいね」

 そんな言葉と共に渡された書類を見て愕然とした。
 平和島。
 自分の姓のはずのそれには打消し線が引かれ、代わりに書かれていたのは折原。
 つまりあの男の名で。
 そして其処に続くのは、違えようもない俺自身の名前なのだ。
 一瞬にして頭が真っ白になる。
 すぐにも我に返るが、顔から血の気が引いていくのが自分でもわかった。
 そんなことになっている理由なんて、たった一人しか思い浮かばない。
 つまりは・・・。

「・・・・・・・・・あ、あの野郎〜〜〜〜っ・・・!」

 わなわなと震える手で、だがその場で叫んだり暴れたりしなかったことを褒めて欲しい。
 怒りを押し込められたのなんて、奇跡みたいなものなのだった。



―― pretty is innocent :1 a worst windowpane ――




「いぃーーざぁーーやぁーーーっ!!!」

 新宿の一等地。
 高級マンションの一室で、どごっと、派手な騒音を立てて、強靭なはずの鉄の扉が、ただ一人の女性の手によってもぎ取られていた。
 もはや慣れたこととはいえ、波江は思わずびくりと背を竦ませてしまう。
 当たり前だろう。
 だって彼女はただの平凡な人でしかないのだから。

「あれ?シズちゃん、どうしたの?いらっしゃぁ〜い。珍しいね、此処に来るなんて」

 非現実的な力の行使が、今まさに目の前で行われたと言うのに、その部屋の主は飄々と機嫌よく、何時もの席で満面の笑みを浮かべている
 そんな常識の通用しない男とは違う。
 勿論。

「お前、これはどういうことだっ!!」

 説明しろっ!!!

 そんな怒声とともに、件の男の胸倉を掴み上げて、がくがくと揺さぶる先程の騒音の原因、人並み以上どころか、むしろ化け物じみた膂力を持つ、そんな彼女とも。
 決して、同じでなんてないのだから。
 胸倉を掴まれて、椅子から持ち上げられ、あまつさえ爪先こそ床から遠のきそうになっている男は折原臨也と言って、新宿で情報屋を営んでいる、人としてクズのような存在だ。
 黙っていれば文句の付けようもない美青年なのだが、中身は利己的でナルティシズムの境地、人間が好きだと嘯きながら、他人の触れられたくない所を暴き立てることに快感を見出すような、人類の深淵を凝り固めたヘドロのようだった。
 対して、その臨也を締め上げるのは平和島静雄・・・否、正しくは折原静雄と言い、男性のような名前をしているが列記とした女性で、短い金髪も勇ましい、こちらもやはりやけに小奇麗な顔と、誰もが羨むような魅惑的な肉体を持つ、一見して美女、少々高すぎる嫌いのある身長も愛嬌の一つ、怒りに駆られさえしなければ温和で、人のことを充分に思いやる心を持った、だがしかし訝しむべきことにその臨也の妻である。
 ・・・本人の認識はともかく。
 つまりはこれは夫婦喧嘩なのだった。
 一応は。
 臨也の胸倉を掴み上げる、彼女の手の片方には紙。
 目を凝らして見てみるに、住民票の写しだろうと思われた。
 一度壊滅的にバラバラになった後、修復した跡があるそれは、だが名前の部分だけはやけにはっきりと見て取れた。
 折原静雄。
 つまりは彼女の戸籍上の名前である。
 臨也もそれに気付いたのだろう、機嫌よく笑った顔のままで、火に油を注ぐような真似をした。
 それはもう、本当に喜色に満ちた声で。

「ああ!あはは。今頃気付いたの、シズちゃん、そうだよ、君は俺の奥さんなんっ・・・!」

 臨也の言葉を、途中で遮るようにして、次に聞こえてきたのは、何か、硝子のようなものにヒビが入るような音だった。
 振り返ると波江の雇い主が、一面に張られた透明な分厚い窓にめり込んでいる。
 はぁはぁと、臨也を投げ終わって肩で息を吐く彼女は、近寄るのを躊躇うほどの殺気を放っていて、こんなものを向けられて、あの男はよく笑っていられたなと、逆に感心した。
 だけど。

「っ・・・ちくしょっ・・・・・・っ」

 小さな声で漏れた呟きが多分、涙にだろう、揺れていたので。
 気の毒にと。
 波江は冷めた目で静雄を見た。
 震える彼女の細い肩は、その見にどれほどの膂力を宿していたとして、ただ脆弱な一人の女に過ぎない。
 だと言うのに、あの最低な男は、その心を思う様踏みにじっているのだ。
 湧き上がる同情心はだがどうにも冷めたもので。
 それは波江にとって。
 二人ともがどうでもいい存在だったからだろう、結局踵を返して部屋をあとにする彼女を、ぼんやりと目で追うだけで過ぎる。
 そして。

 あぁ、コーヒーの一つすら出し忘れた。

 そんな意味のないことを思ったのだった。
 後ろで。
 どさりと床に落ちた男には見向きもしないままで。

「医者でも呼ぶ?」

 一応かけた声はほんの少しの義務感か。
 男が首を振る気配に、そう、と一言だけを返して、随分と寂しくなった玄関をちらと視線に映して、彼女が来る前と同じように自分の仕事に戻ったのだった。

 ゆるりと陽が暮れていく。
 なんでもない、ただの一日。
 そう、ただ・・・彼女。
 折原静雄が。
 自分の立場を、知った、それだけの日なのだった。



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(2010. 3.11up)


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