あの日、多分臨也はまず間違いなく避妊具をつけていなかっただろうから。
 何処かで途方もなく不安があって。
 トイレの中、股の間を流れ出る赤に、ほっとした。
 今から半月前のことだ。



―― pretty is innocent :5 because is painful ――




「姉貴」

 ことりと置かれる瓶入りの牛乳に、俺は伏せていた顔を上げた。
 珍しくも、ほとんど寄り付いたこともなかった実家だ。
 高校を出て、一人暮らしをはじめて、初めの頃はそれでも割りと頻繁に足を向けていたのだけれど、幾つも幾つも職を転々として、時が経つごとに敷居が高くなっていく家に、ここ数年は帰ったことなどなかった。
 電話やメールで連絡はそれでも幾度か取り合っていたのだけれど。
 今日は一日休みで、それで、ただ、なんとなく。
 なんとなく、足を向けてみたのだった。
 俺に厳しかったことのない両親が温かく迎えてくれ、あまつさえ元気がないように見えたのだろう俺に、色々と苦心してくれたのに、結局俺は変わらず机に懐いていたりする。
 それでも、懐かしい気さえする実家の匂いに、何処か心が落ち着くようだった。
 そうしたら珍しく、休みだったらしい幽が帰ってきて、何を気遣ったのか両親は買い物に出かけてしまった。
 つまり今この家には幽と俺の二人きり。
 まるで子供の頃みたいだと思う、俺は笑って幽に軽く礼を言った。

「あぁ・・・サンキュ」

 小さくはにかむようにして。
 両親は・・・知っていたのだそうだ。
 そりゃぁそうだろう、未成年者の婚姻にはそもそも保護者の同意がいるのだ、どうせしめたのかは知らないが(どうせ言いくるめたのだと思う)、アイツだって法律を覆すことは出来ないはずだ。
 ・・・偽造ぐらいはしそうだが。
 だから、ある意味では当然かもしれない・・・ともかく、両親は知っていた。
 俺がとっくに『平和島』の姓でなくなってしまっていることに。
 それは・・・なんだか、酷い裏切りのようにも感じたけれど、少しだけ安堵したのも確かだ。
 いずれにせよ、結局は知らなかったのは俺一人なのだろう、きっと・・・幽だって。
 俺は酷く躊躇って。
 幾度も、口にするのを躊躇いながら、差し出された瓶入りの牛乳の口を開けた。
 心を落ち着けるように一口、口に含む。
 慣れた白濁の味は、俺の心をシミのように押し流して、少しだけ気持ちを平らにした。
 息を一つ吸ってゆるりと吐く。
 俺の座るのの向かい側の椅子を引いて腰掛けた幽は、何時見るのとも変わらず、しらと色のない顔をしていて。
 その、変わらなさにも後押しをされるように、俺はそれでもやはり躊躇いがちに唇を震わせた。

「幽・・・お前も」

 知って、いたのか。

 皆まで言わずとも、幽はくるりと一つ瞬きをして、鈍い、だけどやはり常と少しも変わらない様子で頷いた。

「姉貴が、結婚してること?知ってたよ」

 とっくに。
 多分最初から。

 俺は『結婚』の二文字に僅か躰を揺らす。
 だがそれだけで、幽の方に向けた視線は逸らさなかった。
 幽は、口数の多い方じゃない。
 いつだって表情も乏しくて。
 だけどそれが俺の弟だった。
 小さな頃から何も変わらない、可愛い、俺の、弟だった。

「姉貴が、知らないことも・・・知ってた。俺も、父さんたちも」

 幽は、やはり変わらない顔で、変わらない口調で淡々と言葉を続ける。
 そんな言葉の裏で、幽が本当はどんな風な感情を抱いているのかとか、俺にはいつだってわかったことがなくて、今もやっぱりわからなかったけど、でもそれが幽だから。
 俺はゆっくりと目を伏せて、手に持った牛乳の瓶を飲み干したのだった。

「そうか」

 そうか。

 一つ頷いたように言葉を吐き出しながら。
 俺は目を伏せる。
 緩く。
 見るともなく、小さなから頃からこれだけは変わらないテーブルの木目を見た。
 足の長い淡い色目のテーブルで、あちこちに細かい傷がある。
 キレる度にいろいろなものをぶん投げる俺だけど、そう言えばこの机だけは投げたことがなかったとぼんやりと思いながら。
 俺は・・・ショックだった。
 ただ、ショックだった。
 自分の与り知らない所で、自分がどうにかなっているのが。
 それが例え紙切れ一枚のことでも。
 あの男は歪んだ執着を俺に向けるくせに、口から吐き出す言葉は醜悪なものばかりで。
 躰ばかり繋げても心が一つも触れ合っていない。
 俺は、きっとそれが・・・何処かで、いつだって苦しかったから。
 だからだと思う。
 だから、ショックで。
 苦しくて。
 もう・・・触れて欲しくなかった。
 だのに。
 半月前。
 ちゃんと、前の月と変わらずあれが来たことに安堵した。
 最後の時、あの男は不穏なことを言っていたから。
 それが多分・・・本心だろうことも、わかっていたから。
 思い出すと、どうにもできない憤りみたいなものが、頭をめぐって。
 バキリと、手の中の分厚いガラス瓶が悲鳴をあげた。
 そうしたら迎えの席で、多分変わらない眼差しで俺を見ていたのだろう幽が、小さく息を吐いたのが聞こえて、俺はふと顔を上げる。
 真っ黒な髪と、真っ黒の瞳で、真っ直ぐと俺を見ている、小さな頃から何も変わらないように思える、いつの間にか有名人になってしまった弟。
 皆は似ているというけれど、自分ではちっとも似ていると思えない小奇麗な顔立ちの。
 思えばあの男も、酷く整った顔立ちをしているけれど、幽のそれとは種類が違うように思えた。

「姉貴は、さ」

 相変わらず色のない声で言葉を紡ぐ。
 声も眼差しも、表情も何もかも平坦な、小さな頃から過ぎるほど見慣れてきた弟。
 その弟が、小首を傾げて、少しだけ笑んだようだった。
 俺は息を呑む。
 それが、弟の珍しい笑顔だからだというのではなくて、なんだかその笑い顔が・・・あの、いけ好かない男と、重なって見えたからだ。
 少しも・・・似たところなどないのに、どうして。
 わからないけれど。

「多分・・・あの人のこと。許してると、思うよ」

 自分では気付いてないかもしれないけど。

 言いながら、やはりさっき笑ったのは見間違いかと思うほどに常と変わらない顔で、やはり真っ直ぐと見つめてきた、色のない眼差しだ。
 色のない眼差しで、だけど俺は、なんだか泣きたいような気分になってしまって。
 くしゃりと、顔を歪めたのだった。

 それは多分、俺の中で何かが・・・決まった日、だったことだろう。
 休日に。
 懐かしくさえあるほどに、面と向かって顔をあわせるのが久々な弟の前で。


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>>これ抜かそうかどうしようか迷いました・・・びみょ。でも一応入れておきましたよ!臨也出てこなくてすみませっ!!(滝汗)


(2010. 3.21up)


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